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キリン、サントリー、地ビール・・・事業開発物語

2010 / 7 / 7

またまたビールのシーズンが巡って来ました。


プレミアムモルツ

近頃の私は、特に支障がない限りサントリーの「プレミアムモルツ」を愛飲しています。以前は銘柄が何でもよい場合には、個人的な味の好みとしてはエビスビールを飲むことが多かったのですが、プレミアムモルツが登場して以来、すっかり乗り換えてしまいました。このビールには特段の思い入れがあるからです。決して「最高金賞受賞」などといった広告に踊らされている故ではありません。

私は、多くご依頼を受けてきた企業や事業の仕事運としては、どうもビールプロジェクトに関する限り、あまり運に恵まれていなかったとの思いが正直なところです。その詳細はこの後述べて参りたいと思いますが、サントリーについては「ビール事業は、何といっても《美味しい味のビール》を生み出さない限り事業の将来的発展はない」というのが、同社に対する私たちPAOSの究極の提案であり、それがようやく実現したのがプレミアムモルツ、との個人的思いが強くあります。
ただ、ビールの味覚という問題については、私が仕事をさせていただいていた時代のキリンビールには全国の工場から造り出される商品の味の水準を保つ味覚名人のような役割の人がいたということがありました一方、絶対の味覚自慢のビール愛好家達に5種のビールを当てっこしてもらったら、全く当たらなかったなどという話もあります。ともあれ、味の判別に関しては、その時に飲む最初の飲料やその日の健康状態に相当影響を受けてしまうことは確かなようです。

それでは、ビール事業に関する提案者PAOSとしての、苦い想い出のいくつかを披露してみましょう。これも記録に残しておくべき日本の産業裏面史と言えるかも知れません。


キリンビールのプロジェクト

たとえばキリンビールのプロジェクトに関しては、数々のKIRINブランドのCI・BIの開発作業や、基本的に今も使われ続けている伝統のラベルデザインのリファイン作業なども提案実施させて頂きました。

「KIRIN」という英文ロゴは、われわれPAOSが手掛けたものから、似たようなリ・デザイン版の現在のものに変わってしまっていますが、どうしてこのような緊張感やキレの無い造形に敢えて改められたのか、私にはいまだに謎です。昔からロゴの名品と呼ばれてきた作品は、どこかに快い緊張感を秘めた、造形的に高い完成度の事例が多いからです。出来ればリ・デザインを担当された方に表現面での理由説明を聞きたいとずっと思い続けています。


KIRINロゴ旧新

ところで私たちがキリンビールの依頼を受けてプロジェクトに関わり始めた1981年当時は、ビールと言えばパッケージデザイン競争の盛んな時代でしたから、当初は実に様々なビン・缶・変形容器のデザイン作業を手掛けさせてもらいました。


ビールのパッケージ揃え

その作業成果の延長上で、やがてキリンビールに関わるCI・BIの大部分の見直し作業をさせてもらうことになりました。ほとんどの皆さまはお気づきでないと思いますが、実は伝統の現行ラベルなども、動物学者から「生態学的に見てデッサンが狂っている」との指摘を受け、伝説の聖獣:麒麟の基本の造形からして全て作り直したものです。


旧新ラベル比較

キャラクターのバージョン揃え
(たてがみの中にキリンのカタカナ文字が散らしてあります)

こうした一連のアイデンティティデザインの作業をほぼ終えたところで、PAOSではこれからはきっとビールも「味揃えの時代」に入っていく、との提案を行いました。実際に実験商品の開発もかなりのところまで進んでいたのですが、最終的にはそうした味揃え策は「効率が悪い」との理由で、このプロジェクト自体が役員会で否決されてしまったのでした。
私たちもこの時は、何と先を見通せない会社か?と、契約解除を申し出て一度関係を断ってしまいました。1985年のことです。

やがて1987年、登場してきたのがアサヒビールの「スーパードライ」で、瞬く間に市場を席巻していくことになるのですが、それでも当初キリンのビール技術者達は「ビール技術の神髄は、どこで発酵を止めるかのコントロールにあり、スーパードライは放っておいたら勝手に吹き上がってしまって、たまたまドライタイプの商品が出来上がってしまっただけ」と、楽観視している状況でした。
しかし、この時期を境にビール関係飲料は「味揃え」「価格揃え」の競争時代に突入していくことになります。分野を問わず、永くトップの地位に君臨し続けている企業にとって怖いのは、競合他社の新製品が良さそうなものであれば、圧倒的な技術力・資金力・人材力・流通支配力などで、さして開発努力をしなくても同様商品をぶつけて後追いで叩けばよい、との姿勢が体質化してしまうことです。この時のキリンビールはまさにそうした状況の企業体質になってしまっていたように推測します。

ところが恐ろしいのは、永年そうした企業姿勢が続くと、何が「真に新しい価値」を持つ商品なのかの判断すらできなくなっていくという事態が起きてくることです。スーパードライに対する対応策の遅れは、まさにこうした現象の証明のような状況であったと思えます。
しかし、とかく一度勢いのついてしまった商品や事業というものは3、4年はなかなか手が付けられない伸展力を持つものであると思います。

いずれにしてもこの問題については、PAOSは確実に時代の先を読んだ提案ができていたのに、と慚愧(ざんき)の念に耐えません。

このプロジェクトについてはその後日談もあるのですが、それは長く複雑になるのでここでは割愛しましょう。


サントリービールのプロジェクト

最終的にキリンビール社との契約を終了して約5年後(1992年)にご依頼を受けたのが、サントリーのビール事業立て直しのコンサルティングでした。
年月は空いていたとはいえ、キリンビールとは、大関雅成専務や本山英世社長、中茎啓三郎専務といったプロジェクト時のトップマネジメントの皆さまと相当深いお付き合いがありましたので、一応キリンビール側の了解を得てから、サントリーのプロジェクトに取り掛かりました。

サントリービールの場合も、このメーカーが永年の赤字事業であったビール分野に置いて、「果たして何をなすべきか?」が主たる依頼テーマでした。
この時も、PAOSの提案は次代を確実に読めていたと思いますし、そうした画期的な提案を行ったにも関わらず、時代の趨勢を無視した大蔵省の意見(立場?)から、結果としてプロジェクトは中断のやむなきにいたり、残念でならない思いの残る提案に終わってしまったと言えます。

サントリーのプロジェクトに関わりを持ったきっかけは、同社の広告宣伝やマーケティングの分野で数々の輝かしい実績を残しておられた故・辰馬通夫さんが、人を介して1992年に訪ねて来られたことにありました。ご相談の内容は、事業開始以来数十年にわたり赤字の続くビール事業革新の相談に乗ってもらえまいか?とのお話でした。
その後、当時副社長であった佐治信忠現社長にお目に掛かり、面接のような意見交換の結果、賛同を得て、すぐにビール事業作興のプロジェクトに取りかかりました。

当初の調査作業で、同社がビール事業に永年にわたり多大な予算を注ぎ込みながら事業として陽の目を見ていないのは、ウィスキーのトップメーカーとしての手法や体質があまりにも染みこんでいるためだと判断がつきました。世間一般のイメージもウィスキーのそれで、なかなかビール飲料とマッチングしない状況にありました。そこで先方に若手中心の優秀なメンバーの開発チームを形成して貰い、先ず意識改革・体質改善策を兼ねたところからビール事業再興プロジェクトに取り組み始めました。
残念ながら、辰馬さんは2001年にお亡くなりなってしまわれましたが、この時のタスクホースに参加された皆さんは実に柔軟かつ優秀で、既にリタイアされた方も多いのですが、現在要職につかれている方々も沢山おられます。

前置きが長くなりましたが、PAOSがサントリーのビール事業に関わり、提案させていただいた内容について話を進めましょう。
当時発売されていた何種類かの同社ビールを飲んでみて感じたことは、確かに試行錯誤の中で多くの種類のビールがつくられてきているのですが、これぞシンボル商品と呼べるような味を持つビールが存在しないということでした。

そこで私たちは2軸からなる改革案を提案しました。
その第一は、「何としても多くの人たちに美味しいと認められる新しいビールを創り出すことが重要」との起案でした。それも、出来ることであればサントリーらしいプロモーショナルイベントなどを絡めたマーケティング手法で、それを成し遂げるべきではないか?と考え、これを「市民ビール」と名づけました。


「市民ビール」提案企画書の一端

もう1軸は、サントリーにはビール事業で苦労されてきた歴史から、多くの酵母を保持されている現実がありましたから、やがてわが国でも地ビールが解禁になる時が早晩やってこようから、その時に備え「全国の地ビールメーカーを支援する事業を立ち上げましょう」との提案でした。着手はむしろ地ビール起業応援連携プロジェクトの方が先ではないかと申し上げました。
当時、ドイツでは約4,000社、アメリカでも1,200社ほどのビールメーカーが存在していましたから、わが国のように選択肢が4社しかないという市場構成の方が世界的に見ても異常であり、また、これからの個人生活の多様化への推移を考えても、地ビールの勃興と流通は必然性を持つと私は考えていたからです。

ところが役員会に掛けたこの提案は、佐治敬三会長(当時)が大蔵省に聞かれてみても「地ビール解禁などということはあり得ないこと」と言われた、の理由で否決されてしまいました。

私にとっては乾坤一擲(けんこんいってき)の秘策アイデアでしたし、推論に間違いがある筈はないとの思いがありましたので、「どうして判ってもらえないのか」と無念の思いイッパイでした。
事実、その提案から約1年半後、地ビールは解禁されることになります。

昨年、縁があって私は日本デザインコンサルタント協会(JDCA)の懇親ツアーで川越を訪れるチャンスに恵まれ、地元のコエドビールの朝霧重治社長に地ビール立ち上げのご苦労話をお聞きする機会があったのですが、その話を伺っていても、サントリー社は惜しいチャンスを逸したのだとの思いが今も残るのです。

川越ではコエドビールの工場見学をさせていただき、当然、商品の試飲もさせてもらいました。この時、5種類の商品を試飲させて頂いた個人的感想としては川越のサツマイモをブレンドした「紅赤-Beniaka-」が特に美味しいと感じました。紅赤はアルコール度7度とビールとしては度数の高い方ですが、次々とお代わりをしたくなる赤い色をした味わい深いビールです。残念ながら近隣のスーパーや酒屋さんには置いてはいないのですが。


コエドビール本社工場入口

コエドビールの品揃え



なお、最新のデータでは日本全国に222社の地ビール醸造元が現在存在しているとのお話でした。多分、その中の多くは経営的に多難の起業であり、その後もご苦労を重ねておられることと推察します。

サントリーからの依頼プロジェクトで唯一具現化しましたのは、同社の代表商品モルツのパッケージデザインのリニューアルでした。


パッケージデザイン検討プロセスの一端

また、新パッケージデザイン誕生に併せて、これも同社らしい面白い試みでしたが、プロ野球の引退した名選手を集めて「モルツ球団」を結成しました。この企画は今も続いているようです。

このモルツ球団のユニホームはどことなく阪神タイガースのそれにイメージが似ています。
当時、しょっちゅうPAOSを訪ねて来られていた佐治敬三会長から「どこかスポーツチームを持ちたいのだが?」とのお話があり、「それなら阪神タイガースをチームごと買い取られてはいかがですか?」と冗談半分にご提案したことがありました。当時は今のような強い形での地元密着のフランチャイズ制などは広島カープくらいしか無く、プロ野球球団の売値は大変安かったのです。南海ホークスがダイエーに買い取られていた時代でした。
この話に、佐治会長は大分心を動かされたご様子でしたが、阪神を買い取ると主たる市場である東京の顧客を失ってしまうのではないか?との懸念が、お気持ちの中には強くあったようです。
その流れの中で生まれていったのがモルツ球団でした。


モルツ球団写真

「プレミアムモルツ」が誕生してからは、わが家で飲むビールはほとんどこれになっています。当初から申し上げていた「サントリービールには味のシンボル商品が要る」との提案がようやく具現化してくれた、との思いが強いからです。
あまり飲み過ぎると尿酸値の心配がありますので多少びくびくしつつも、陰ながら佐治信忠社長に「ようやく出来ましたね。カンパイ!」と言いながら、今日もプレミアムモルツを飲んでいる次第です。


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投稿者 Nakanishi : 2010年07月07日 10:50